最近はAIが何でも創作してしまう世の中。
では人間が何かを創作することはムダなことなのか?という問いについて答えを考えていた。
人間は無駄なことをやるのが人間らしさである、と言える。以前、NHKの番組で氷河期にビーズの
首飾りを作っている痕跡が発掘された時に磯田さんが「人間はこういう命の危険が迫っている時でも
首飾りを作る生き物なんです。」そして「そういうことが出来るから月にまで人を送れるんです。」とも言った。
確かに氷河期で食料の調達が生死を分ける中でも人間はそれ以外のことをしていた。
そしてその痕跡は数万年の時を経て発掘によって現代の人々にその「生きた証」を届けたと言える。
AIがやってしまうからもう人間がやる意味はない。コストが掛かるから意味がないと言ってしまっては
もう人間の存在そのものを否定していると言わざるを得ない。
そもそも人間がいろいろなものを生産し利益を得るのは人々に販売し使ってもらってからこその「製品」なのに
人=コストとしてなるべきく人を使わないようにしたらカネを稼げなくなるから利用する人が減るという
負のスパイラルに陥ることを経営者や株主は考えないのだろうか?
そう言う観点から見るとオンガクも絵もAIが作るから人がわざわざ作るのはもう時代遅れだと言うのだろうか?
それですべてのことを満足するのだろうか?そうなればますます人は脳を使わなくなり退化していき、ロボットの社会に
なってしまうだろう。10万年後の地球は機械の星になっていることだろう。自然環境のことを思えばその方がいいのだろう
けれども「そうなってたまるか!」と奮起するものまた人間だろう。
最近、ボーカロイド文化に触れて自分の進むべき道を決めたという若い人とやりとりしたことがあった。未来への希望しかない
輝かしい、眩しいときめきにこちらもエールを送った。彼らのそういうピュアな心にどれだけ社会が寄り添えるかというのはある。AIが
あるのだから音楽なんてAIに作ってもらえばいいなどと言ってしまえば氷河期にアクセサリーの痕跡を残した人をも否定することになる。
無駄なことをせず食料を探せと言われてもアクセサリーを作った、それは効率とかから見れば無駄かもしれないが人間の「心」にとっては
無駄ではないということ。創作というものが普遍的に人間に与える感動とか価値は変わらない。だからAIが作るから人はやらなくて良いとは
ならない。特に芸術の世界ではどんなに精巧に寸分たがわない過去の名工の技を再現したとしてもそれに人が介在しなければ「工業製品」だろう。
それも100年経てば価値は出てくるのだろうが人間の介在が無いものを使うようになればいずれ人間は隅に追いやられ機械が支配する世界へと
変貌するだろう。その中で人間が作る価値とは何なのか?ということになるわけだが対外的なことに関して言えば機会に取って代わられるかもしれないが
「自分が生きた証として」の創作はその人にしかない価値であり、AIでも作り得ない唯一無二の価値ではないか?と思う。
だから音楽にしろ絵にしろ誰かのためにではなく自分の生きた証として残すそれこそが人間的な行いではないか?と思う。アクセサリーを作った人も
誰かの為に作ったかも知れないがおそらく自分の為に作ったとも言える。その利己的とも言える行為は時を越えて伝わったようにネット上に自分の作品を
残すことは氷河期のアクセサリーと同じ価値を持つと思う。
これはAIでは成しえない価値だと思うから人間が創作したものが無駄ではないと思える。
だからこれからボーカロイドを使って音楽を作る、絵で表現することも決して無駄ではないと思えるし
その世界へ入って行くことはより人間らしいことだと思った。
AIがどれだけ人間社会を変えるか分からないが少なくともこのままの社会が維持されれば作品は100年後の誰かに届くことになる。
それこそ氷河期に生きた人間の祖先が残したアクセサリーと同じことだと思う。
私はそういう気持ちで音楽を作っているが、そういう環境が整った今、何かしたいと思っているならその世界へ飛び込むべきだろうと思う。
それは年齢は関係ないと思う。時代が進み人間の創作をアシストする社会が来たなら飛び込むべきだろう。
AIもその一つかもしれないが決定的に違うのはアシストの範囲を超えるか超えないかだ。AIはその領域を超えてしまっているから
人間が作ったものと言えない。そこははっきり分けたいと思う。こんなものが作りたいと思って自分で操作して作るのではない。
こんなものを作ってくれと依頼するのは創作ではないからだ。
だから人間が介在する創作は重要であるし何年たっても価値を失わない。アクセサリーも同じでアレがAIが3Dプリンターで作ったとしたらどうだろうか?
それは人間が作ったのではなく機械が作ったものと認識される。それは100年後工業製品として博物館には飾られるだろうが人が作ったものとしては
カウントされない。やっぱり人間が介在してこその創作だろうというのは普遍的だと思う。
その自分が生きた証を残すことは一般的ではない。人が死ねば遺品は整理され、あるものは廃棄されあるものはどこかに引き取られるだろうがそこに自分の名前が
残るかと言うと残らない。よほどの銘品なら由緒も付くだろうが。その点、ネットに作品を残せばアカウントが消されない限り残るわけで、誰かが管理してくれていれば
残るしそういうサービスや有志も現れるだろうと思う。スポーツでの記録もデータとして残るかも知れないがそこに感動はあるのか?多くの人はそういう自分が生きた証を
残せず死んでいく。しかし、音楽や絵はネットに残すことが出来る。
興味があるならやるべきだろう。つたないものでもいいからネットにアップすれば誰かが聴く。見る。それは無駄なこととは思えないしAIが代行して価値を生むとも思えない。
自分の足跡として自分の為に残すことはAIには取って代われない。それこそ本物の価値、見失われそうになっている価値ではないだろうか?